Enoch (2018)まとめ

The Routledge Handbook of Metaethics 所収、D. Enochによる' Non-Naturalistic Realism in Metaethics'のまとめを載せます。

これからもメタ倫理学における非自然主義周辺の論文等に関して、まとめを投稿できたらと思います。(しばらくはHandbook やサーベイ論文が主になると思います。)

 

‘Non-Naturalistic Realism in Metaethics’要約

 

導入(pp.29-30)

・私たちの日常的な語りを文字通り受け取る限り、そしてそれらが正しいとすると、私たちは私たちの思考や語りから独立した抽象的存在者にコミットしていると考えることができる。→素朴実在論

・ただそのうち全てにコミットしているわけではない。というのも、例えば「平均的体重の男性」は、個々の男性の体重に関する事実に還元されるために、そのような抽象的存在者が存在するとは考えないからだ。

・この2つに着目することで、メタ倫理学における非自然主義実在論(以下、NNR)を特徴づけることが可能になる。まず、NNRは私たちの道徳的営みから独立した道徳の領域が、上手くいった語りが表すようにして存在すると考える点で素朴実在論的である。またそのような道徳的性質や事実が、非道徳的なものに依存しないと考える点において非還元主義にもコミットしている。

・とはいえ、ここからさらにNNRを特徴づけるのは困難であるので、他の立場との対比においてNNRの特徴を捉えていきたい。

 

表出主義との違い:道徳的命題ないし判断は真理値適合的

反応依存主義(response-dependence theory)との違い:規範的事実は私たちの反応から独立

神命説との違い:道徳的事実や規範的事実は神の反応に依存しない

構築主義との違い:道徳的命題は、その真理値が手続きやその採択に依存しない

自然主義との違い:道徳的性質が自然的性質に還元されたり、依存したりしない

         →道徳的性質が因果的効力を持たないことをしばしば示唆する

錯誤説との違い:道徳的命題はトリヴィアルでない仕方で真理値を持つ

 

・以下の構成⑴なぜメタ倫理学の詳細な論争に前においてすら、NNRは攻撃される立場であるのか、⑵なぜ多くの人がこの立場を拒否するのか、⑶NNRの特徴付けとさらなる反論、⑷NNRを支持する論証の簡潔な記述

 

明白な初期的な立場(pp.30-33)

・NNRは出発点でなければならない。というのも、他の立場は論証に基づかなればならない一方、NNRに関しては、論証がそれを確立するというよりは、それを破るために必要とされる。では、どのように?

・まず第一に注目すべき点として、道徳言語が他の表象的な言語と同じように振る舞うという事実が存在する。「性差別が広まっている」と「性差別は悪い」といういずれも言明に対しても、私たちは真理値を付与する。したがって、両者を種において峻別することは難しい。峻別するべきだという論証が成功するまでは、額面通り受け取るべき。(真理値適合的)

・第二に、道徳的談話は客観的意味を持つ。私たちは自らの道徳的規準を他人の道徳的コミットメントを確かめることなく押し付けるし、もし他人のそれが異なれば、その押し付けを差し止めることはない。また、私たちが前理論的に持つ反事実的想定は、反応依存とすわりが悪い(肉食が悪いとすれば、誰もその悪さを受け入れなくとも肉食は悪い)。また、道徳上の不一致を真正の不一致と考える(どちらか一方が正しいし、証拠や論証を提出することができる)。この点において(他の点においては違いがあるとはいえ)、道徳的談話は経験的談話と似ているし、味覚やかっこよさに関する談話とは異なる。もちろんこれが誤りであることはいつか証明されるかもしれないが、説得力のある論証が与えられない限り、道徳的談話が客観的意味を持つというのがデフォルト的な立場になる。

・しかし、道徳的談話の客観性にコミットすることで道徳的相対主義にコミットしてしまうのでは?つまり、道徳的談話が単に慣習や個人選好の表明でしかない可能性が残ってしまう。

・先述したように、「平均的体重の哲学者」は自然的に還元可能であるが、それでも客観的意味を持ち続ける。そしてこの点においても、NNRはデフォルト的立場であるのを確認することは重要である。ここで典型的な規範的性質と自然的性質の違いに関して確認しよう。まず前者に関しては、侮辱が誤りであることや尊厳の価値、性差別の悪さなどが挙げられ、後者に関しては、電子やクオークの存在、性差別の広まりなどが挙げられる。これらは一見するとその種において異なっているが(もちろん、親密な関係が健康に良い、などの境界事例は存在するが)、前者が後者に還元可能、少なくとも基づいているという主張はあり得る。

・形式的規範と真正の規範を区別し損なうことで、規範的性質と自然的性質も区別し損なってしまう。形式的規範には例えば、あるゲームにおいてはラインを踏んではいけない、などといったものが含まれるが、これは私たちの実践と不可分である点において自然的事実とそれほど違いはないように思われる。つまり、何かの本性などの自然的事実は仮言的な規範性を導く[私]。

・全ての道徳的事実が形式的であるわけではない。真正の規範性とは、サッカーをプレイしないことでそのルールから逃れられるような類のものではなく、つねにつきまとうもの。定言的なのである。ある種の定言性[私]。また道徳性が持つ規範性は真の規範性であり、それは私たちと私たちに適用される真の理由を与えたり、何かをすることに意味を為したり、私たちが忠実であることにつなげる。自然的性質はこのような役割を担うことができないために、真正の規範性が自然的なものと同一であると主張するためには、積極的な論証が必要。この意味においてNNRはデフォルト的な立場。

・また、他のメタ倫理学的立場を報じる人々が、NNRが説明する現象を自身の立場からでも説明できることを示そうとしている点においても、NNRはデフォルト的な立場である。

 

そしたら、なんでみんなNNRを支持しないの?(pp.33-37)

・ではなぜ、NNRの支持者は少ないのか?

・まず第一に、上記したNNRの取り込みプロセスが進行していること。そして第二に、NNRへの反論がそれを反駁しきるものまでとはいかずとも、NNRが他の立場より善いということを否定することで、デフォルト的なNNRから離れることを正当化しはするということ。NNRへの反論を受け付けない理論によって、NNRで説明されることも説明できるならなおさら。

・反論の簡潔な紹介。

・方法論的ないし存在論自然主義→NNRは科学の網羅性(exhautiveness)を拒否

存在論的反論。道徳的事実は自然的事実とどのように関係するか?NNRは前者が後者に還元できないと考えるとはいえ、完全に独立していると考えているわけではない。より正確には基礎的な道徳的事実(一般的規則か。例として、苦痛はある程度まで(pro tanto)悪である)は自然的事実に依拠せず、派生的な道徳的事実(個別規則か。例として、猫をけるのは悪いことである)は自然的事実に依拠していると考える。一方で自然主義者は両方とも自然的事実に依拠していると考える。両陣営ともその基礎づけの仕方に関して説明を行わなければならない。また道徳的事実が自然的事実にスーパーヴィーンするという直観があるが、NNRは更なる説明を求められる。

・認識論的反論。では、どのようにして道徳的性質に認識論的にアクセスすることができるのか?つまり、道徳的性質が抽象的存在者であるならば、時空間の外にあり、因果的効力を持たず、人間の反応や態度から独立しているならば、そのような性質に関する信念はどのように正当化され、知識となり得るのか?これに対しては、NNRは認識論的アクセルという概念をより広い認識論的議論の文脈に置くことで議論する(例えば、知識と正当化には、知られているものへの因果的関係が必要とされるのかどうかという問題)。また、NNRは共犯論法(“companions-in-guilt” argument)を用いて、道徳は認識論的観点において、数学より劣っているわけではないと主張する。また最近では、生物学的暴露論法も取りざたされる。

・意味論的反論。規範的性質がイデア的な抽象的存在者であるならば、例えば「善」はどのようにして善を支持し得るか。このときNNRは指示の自然主義的理論を用いることは出来ない。メタ意味論的な議論を行う必要がある。

・動機づけに関する問題からの反論。NNRが主張するように、道徳的判断が事実的判断であるならば、前者と動機づけの必然的とも思われる関係を説明することが出来ない。これに対してNNRは両者の関係を説明する、ないしは、ここで要求されている規範性と動機づけの関係を強すぎるとして拒絶することで応答してきた。また関連して、道徳的性質が私たちや私たちの関心から独立して存在するならば、なぜそれを気にかけなければならないのかに関して説明できない、という反論が存在する。

・道徳的不一致からの反論。道徳に関する意見の不一致やその強固さは、NNRと両立不可能ではないとはいえ、友好的ではない。また道徳的性質の存在論的地位それ自体が危うくなることはなくとも、各人の道徳的信念に関して、それらが対立している場合に、どちらが正当化されているかを見極めづらく、いずれに関しても判断保留しなければならないかもしれない。

・このようにNNRへの反論は数多く、束になってかかられたときにはNNRの拒否へとつながるかもしれない。もちろんそれら反論を適切に扱い得るかもしれないが、その応答に対して疑い深い目を向けられるかもしれない。

 

ちょっと待って、正確にはNNRって何なの?(pp.37-39)

・しかし近年になって、NNRそのものの立場というよりは、他の立場との違いが不明確になりつつある。

・というのも、真理のデフレ主義の登場によって実在論非実在論の区別が難しくなったからだ。両者とも道徳的判断が真理値適合的だと考えるので、この点で区別することはできない。そしてこれはNNRにとって特に問題かもしれない。というのも、浸食的ミニマリズム(creeping minimalism)がNNRの利点を、その他の形而上学的背景にコミットすることなく弱めてしまいうるからだ。また或いは、浸食的ミニマリズムはNNRにこのような背景を説明することすら許さないかもしれない。NNRの応答としては、他の実在論者とともに、それでも残る差異を説明したり、或いは、そのような差異が無くなったとして、生じるのは実在論への収束であることを論じることであるかもしれない。もちろん、真理のデフレ主義を退けるという途も残っている。

・また、メタ倫理学を横断するような問題だけでなく、NNRと近い立場からの反論もある。つまり、NNRより存在論的に軽い静寂主義からの反論だ。これはメタ形而上学の領域へ踏み込むことになるが、NNRとしてはデフレ主義を退けたい。

・また「自然的(natural)」という語をどのように解するか、に関しても対立は残る。

 

論証(pp.39-41)

・たとえNNRがデフォルト的立場であるとしても、それだけでNNRの信頼性が担保できるわけではない。

・積極的な論証が必要である。

・そのような論証の例として有名なのはムーアの「開かれた問い論法」であり、これは自然主義的還元主義の反駁を目指した。

・しかしこの論法が失敗しているのは衆目の一致するところ。というのも、形而上学的同一性を否定できていないからだ。

・現代NNRは積極的な論証を提示するよりは、反論への応答という形を採ることが多い。とはいえ、多少は論証を提出する論者もおり、例えば認識論的規範との類比において論証を行う。

イーノック自身も論証を提出している。まず1つ目は、NNRの直接的な用語を目指すというよりはむしろ、道徳性の客観性を確立するものである。異なったメタ倫理学てき立場は異なった一階の立場(規範倫理学における立場か[私])を示唆するが、この一階の立場における妥当さは、メタ倫理学上の立場の妥当さを示唆するのではないか。

・2つ目は数学における不可欠性論証と似ている(ただし道徳性でなく、規範性に関する論証)。最善の説明理論におけるある存在者の量化が不可欠であることは、その存在者の存在を信じるよい理由である。→規範的性質は確かに説明には不可欠でないかもしれないが、熟慮計画(deliberative project)には不可欠であるかもしれない。

・とはいえ、まだ結論は出ていない。